自分たちで選んでいくんだけど、頑固になりすぎてしまったり、思い込みで人を動かしてしまったりで、それに慣れていたり。
それを誰が滅ぼすのかって、自分で滅ぼすんだ。どうやら日本人はそれに慣れさせられている。
支配したい人は会社の上司でもいるし。でも昔のやり方が通用しなくなった。
隠しているものが出やすくなった。
日大(日本大学アメフト部のパワハラ事件)もそうだ。あれは昔からだ。
スポーツは清く正しい(というもの)ではなく、出世しやすい、上に行きやすい。だから(世渡りのうまい人間が)監督にもなれた。
だけれど、もうどうするの? どっちを取るの? だ。
それぞれのモラルに照らし合わせる。学校として、法人としてやっていかなくてはならないけれど、そこまでやってそれ(=悪いところを)を切り取りませんかってなる。
他のところも今まで中に入って見えなかったところが周りから監視される。
監視するのは正義ではない
ただ怖いのは監視している方が正義だとなってしまうことだ。正義でも何でもない。これはいけない、これはいい、この頑張りは認めようというのはいい。
いいことをしている気になっている人間ほど恐ろしいんだ。
ネットが炎上するのも怖い。顔も見えない。
名も知らない正義、正義感に燃えて思い上がっていることほど怖い。
人に転写する苦しみ
個人がとても大事になってきていて、それにシフトできない人が苦しみながらその罪悪感や苦しみは自分のものなのに、人に転写していくから順繰りに人を攻撃していく。
目立たずにいいなと思うことをしている人たちはまず見えてきた。マスコミ、会社はもっとそうだ。
いい人たちや周りに思いやりのある人たち、ただただ自分がやりたいと思っている人たちの足をつかんで引っぱるか、自分を早く上にあげてよっていうのか。
テレビも媒介になっているよね。そこに本当の正義というのと、やりたくてやっているとそれが正義になっているというのは違うから。群衆というのは怖いから。よく一つ一つ見つめて、だからテレビ、本、噂話も自分なりによく検証するのが良い時代になってきたんだ。
――正義を掲げて何も言わせなくする人、普通にしたいからしたら良いこと、周りからみたら良いことになってる人と(分かれる)。
周りから見たら楽しいな、うれしいな、これを見習いたいなと思われるものが「正義」と名の付くものであるならば、自分たちからやりたくてやったんだ、やってみたら、というのが普通じゃない?
誰も傷つかない。それがすごくはっきりしてきた。
自分の感覚と見つめながら照らし合わせるのも一つの方法かもしれない。
常に自分はどうなんだろう、これは流していいことだ、これは受けとめたらどう解釈するんだろう、ここは相いれない、これはこっちに移行するんじゃないかな、って選択は自分でできるよって。
もう目に見えているから。
ニュースを受け取る、受け取らないも自分の選択
――ニュースを受取る受取らないも。
ニュースを見る見ないも選択だから。ニュースを見るということはそこに興味があるということだから。全部が全部興味があって見たりしないでしょ? 暇だから見るっていうのはあるかも(笑)。
新聞や本の見出しはきらびやかじゃない、そこをどう選択するかっていうこと。間違えることはないから。「自分が選択している」という意識を持てばいい。
――これを5年間ずっと言われ続けられてきて、少し刷り込まれたかな(笑)。
これまでの思い込み
でもとても良き方向に行っていると思う。動揺は少なくなるし、伝えやすくなっているはず。洗脳じゃないけれども、ずっと思い込まされてきていて、自分で選択したはずだと思い込まされてきた。これが怖い。
商品開発、ニュースの言葉、上司の言葉、肩書信仰もそうだし、偉い人が言った言葉は正しいと思い込まされてきた。
だからこの人が言っているのは大まか正しそうだけれども、自分に照らし合わせてどうだろう、80%ぐらい賛同できるのであればちょっとやってみようかなって。それぞれの結果は違うだろうけど。
十人十色で本当にいいんだよという時代だ。
後はどこが自分の弱点か知っているのもいいかもしれないね。
わかっているということはそれだけ回避しやすいし、早めに流すことができる。ドンと落ち込んでもこれは自分の弱点だとわかれば次はどうするかと整えられる。そうすると弱点はチャンスになる。必ず。弱点は自分のことを知らないと気づけない。
――まだ自分で気づかない弱点がいっぱいあるかも。
気づかないじゃなくて、「見たくない」の間違いじゃないの(笑)。
――そうやって逃げ回るとちゃんと目の前に出してくれるんだな(笑)。
(2018年5月)
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