「われわれさん」から繰り返し繰り返し伝えられるメッセージは、未来は私たちの選択次第、私たちが決めてよいということである。神さまや救世主や政治家が導いてくれるわけでもなく、私たち一般の人間の選択である、ということである。
――究極、(地球の未来が)どうなるかは一人ひとりに委ねられているんだね。
委ねられているというより、どうなるか、答えを見たがっているのは「われわれ」(人間ではなく神様たち)のほうだ。
(未来は)君たちの世界で君たちが決めていいんだって言ってるんだ。
何をやりたいの?
最高のものはなあに?
自分のやりたいことは何なの?
選択できるんだよ、何をしても大丈夫なんだよ、勇気と自信を持った時に人は寛容、寛大になれるから争いはなくなるよ。
こんな自由だと争いがあるんじゃないかと思うかもしれないが、争いは不自由だから、物がないと思うから、自信がないから、怖がるから起こるんだ。
その認識をひっくり返すことができれば、また変わっていくのではないかな?
「争い」という定義も。その選択肢は一人ひとりにあるんだ。
小さいとか大きいとかではなく。
とても重要だ、その人しか持っていない、われわれ(=神々)ではない。
われわれは手を貸してはいけない。結果、どうしたいのかという話だ。
――私はこうしたい、でもこっちの人は全く違うことを選びたい、さあどうするかだ。でも究極は私の世界、私を中心とする宇宙ってことなんだけど…。
答えを言っているじゃないか。
――隣の人が違うことを思っていたら邪魔されそうな気がするんだけど。
ということはあなたが邪魔するかもしれない。
――そう思った私が邪魔してるんだよね。
うん。それはなぜか、他人の意識コードにすっと入る癖がある。他人を思うのも大事なんだけど。
それは協力関係や楽しいことをやるには大事なんだけど。
それすら、来る来ない、楽しむ楽しまない、という選択は(人)それぞれにあるわけじゃない。
自分自身に入り込めばいいだけだ。自分の宇宙はどう作りたいかだ。
――私の宇宙のだれだれさんはこう、こっちの人はこうだということかな。みんな幸せになってほしいな。
あなたが幸せでなければね。なぜ違う身体の認識コードを持つ者がいるのかということだ。それがいない(=他者がいないと)と自分が誰だかわからないからだ。
――究極のところへ行ったね。
(2017年5月)
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