試される情報社会

2020年の東京オリンピック開催で盛り上がる中、五輪エンブレムのデザイナーとなった佐野研二郎氏のデザインへの模倣疑惑が持ち上がった。結局、エンブレムは撤回となったが、マスコミやネットでの佐野氏への誹謗中傷は、人々の悪意すら感じさせるものであった。私たちはこれからネット社会とどう向き合っていけばいいのだろう。(2015年9月)

人は猜疑(さいぎ)心、自分自身を信頼する、情報を見極めるという事柄をとても試されていると思う。

周りを見てみると、何も考えないで行動して、なんでこんな風になるんだろう、と自分を顧みていない。だから、他人が自分をいじめると思ってしまう人もいれば、これがいけなかった、これを学んだからちゃんとやろうという人もいる。それを試されることが多い。

これを気をつけなさいよ、というのがはっきり見え始めてきて、呑み込まれるのか、学んで上に立つのかという事柄がちょいちょいあるかな。テレビをみていても、周りでも。

その中でも巻き込まれないように。見せる怒りはよいけれど。いけないんだよという、お不動さんの怒り、あれは本当に怒っているのではなくて、その姿を見せている。相手のことを考えて怒るのは良いけれど、それともこの野郎!と思うだけなのかの違いなのだけれど、それはとても大きな違い。

それを見極める出来事が、いろんなことが、日本のなかで起こっていると思う。それもとても早く。

―インターネットの力もあるね。

インターネットは諸刃の剣。薬になるのか、毒になるのか。ツールとして使うのか、ツールに使われるのか。匿名性があるから、それを意図しないで載せた事柄が、違う方向に行ってしまったり。まさに新しい道具として、使い方を試されている。

―自分の中にあるマイナスの思いを、何かに、この間のエンブレムの問題のように、攻撃の対象にしてうっぷんを晴らすようなことが起きる。そういう悪意が大きくなっていないかな。

大きくなったのではなくて、見えやすくなった。人は自分たちの目に触れないものは、ないものとするが、今、それが見えやすくなった。

―見えやすくなってきたのは、存在を見ることだから、こういうことがあるとわかることはよいことかもしれない。それを避けるためにも。

これはどういう意図、意味として、教え伝え、お勉強させてくれるのかなという。(ことわり)がなければ、それに対する人の反応もないわけだ。ないものに反応はできない。どんなことにしても、見えてくるものはよいものだ。見えなければ直せない。見えなければ伝えられない、見えなければ感情も動かないだろう。

―見えなければ、無いものになる。さっき、見えない悪意があるよねと話したことだけでも違うわけだ。

確認したわけだ。あることを認めたわけだ。

―そうすると、その有るもの(見えない悪意)に対して、私は同調したくないと思える。

同調したくないという、意思ができるわけだ。その意思によって動くとしたらどんな動きになるかだ。愛のみによって、悪意はしぼんでいく。違う様相をみせるわけ。ただのテスト用紙だということがわかるでしょう。

テスト用紙に腹を立ててもしょうがない。どうしたらその事柄が起きないようになるのか。もしくは起きた時の対処はどうなのか。それだけに過ぎないし、それすらも己の感情や己の出来事をふまえた上での事柄だから、それでしか目で見えないわけだから。後はもうひとつできるとしたら、これは高等だけれど直感に従うことだ。人はその瞬間には従わないものだから。

―電車でこの車両は乗りたくないって思ったら避けるという話をしていた。

いいんじゃない。あなたが避けるとしたら、あなたが避けたという形になるんだ。ほかの人は別に乗っても大丈夫だし、ほかの人もそう思ったら、そしてあなたの乗りたくない、という念が強ければ、その車両はガラガラになる。伝わるから。面白いことに、いやだとか、嫌いだとか、の思いは早いんだ。愛している、好きだっていうのは遅いんだ。その長さとか感覚を覚えていれば、焦る必要はないんだ。また、焦った時に、「焦ってるんだ~」と楽しめばいいんだ。

―なんで遅いの?

愛しているとか、好きだというのは浸透するのが遅い。その人に。嫌いだっていうのは、(言われると)ストレートに「なんで~(怒)」って。

人間って良い言葉や聞き慣れていない言葉は照れるんだ。でも照れる必要はないよ。言われ慣れていない言葉を言われたら、思いっきり喜ぶ。ほめ言葉でもけなされ言葉でも。喜んでみる、で、この感情は違うと思ったら、次、行ってみればいい(笑)

―私に「愛してる」って言われたら、とりあえず喜んでみる?(笑)

後は言葉でも心でも「ありがとう」といってみる。そうすると状況が変わっていく可能性がある。「ありがとう」は強いよ。バリアーにもなるし、人を救う言葉にもなるし、人を導く言葉にもなる。

―さっき嫌な人や嫌な攻撃をされた時にどういう対処の仕方をしたらいいかと。

嫌な攻撃をされた時に、この人はこの役割をしてくださったのだな、だからこそ、嫌じゃないこともはっきりわかるんだな、ありがとう。

―嫌なことがあれば嫌じゃないこともわかる。

そういうこと(経験)は自分じゃできないから、ありがたいなあになる。そういう風に思うと、そういう人たちはふっと消えていく。

表に出ない悪意など、溜まったものを見るときに、認めると小さくなる。
あ、これは悪意なんだなと認める。

―私個人の小さな事ならその対処でできると思うけれども、世の中的な空気の中での対処は?

祈ればいい。それと同時に「ありがとう」を使えばいいし、愛せばいい。それすらも道具だから。できないということではなく、とりあえずやってみる。そうすると物事は動くから。そのこと自体が変わっていく。みんなおかしいと気づき始めているから。

報道をしている人、報道しているカメラマンとか、立ち位置を決めている人たちはもう気づいているんだ。「商品はいいですけど、この欠陥があるから気をつけましょう」というのと、「欠陥がありますが、商品としてはいいものではあります」というのは違うでしょ。悪意の伝え方がある。その言葉遊びに見ている人が翻弄されている。逆に力が強い。

―今、ある年代を境にマスコミの言っていることを鵜呑みにする人たち、高齢者とか、おかしいと思う人と、テレビや新聞を全く見ない若い人に分かれてきている。
真実がどうかということを考えるツールになる。

少なからず、若者たちは自分の力で考えている。

―若者たちの中のある人たちね。

驚きはするけど、否定はしない。でもある年代から上の人たちは「なんだこれは~!」「私は認めない」「排除しましょう!」行動が過激なんだよ。こっちか、そっちかで。中道がない。

だけれども、若者は知らないだけ。「ない」のと知らないのは違う。「ない」と思いこんでいるのは古い人たち。知らないのは若い人たち、だけど、知った時にはちゃんと受け入れる。

 

 

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