受容と認識について(1)

今回からは少し哲学的な内容であるが、テーマはいつもの通り「認識」についてが中心である。「われわれさん」より逆質問から始まる。私たちはすぐに「一般的には」と考えるが、受容できること、認識すること、判断すること、行動すること、何もかもすべて人それぞれで違って当然であるという考えをもっておくと理解しやすいかも知れない。一般論であれ、誘導された考えであれ、すべての決定は「自分」である、と。

今日は(われわれさんより)聞きたいことがあって。「受容」と「認識」についてと、自分の感覚で受け入れがたいことを聞きたい。

(一同沈黙)

―受容できることと、認識できること、受容しがたいこと? どんなこと? 人に対してとか?

どんなことでも。なぜなら個々のことだから。個々が感じてそこに視点を置いて見つめることだから。簡単な個人の事から一般的なことまで。これだけは受け入れがたいというのはそれぞれが分かれることだからね。

―この大きい社会でいうと、幼い子供が亡くなること。虐待で亡くなることとか。それは多くの人が受け入れがたいと思っていると思います。

受容できることは? それぞれのドラマがあるからね。

―個々で違うよね。

なぜに違うのかな。それぞれの視点から見るとそれぞれのものだよね。性格が違うように。その認識も含めて。

―例えば認識するということを日々意識しているかっていうとしてないよね。

だから一般論とか一般的という言葉を使うんだろう。

―それを言ったら受容するということも、ひとつひとつ受容していると認識してるかというとなかなかしていないね。

「選択」はどうしているの? それぞれの行動と認識するということは無意識だろうと意識的だろうと選び取ることじゃない? いろんなことを感じながらやっていると、人は困難なこととか遠回りすることを選び取るよね。それはなぜなんだろう。

―それは自分が受容する過程だね。受容するのを一瞬で受容するのか、時間をかけるのか。やめようかどうしようかと。それはその人それぞれだ。

それは経験でいいのかな?

―経験の積み重ねだね。経験によって差はありますよね。初めてのことがドンと落ちてきたらしにくいかもね。

それが人間なのね。ふーん。

―経験だけでなく、経験をする前に考えて迷うよね。範囲を超えたものは判断できないよね。傷ついたりとか、避けたいと思うと言い訳をしながら遠回りするかな。

遠回りをする、という認識が生まれた時に人は受容している可能性はあるよね。

―ストレートに、ダイレクトに行動しない傾向はあると思いますね。

それがたとえ良いと見えていたり、人間が正義と見えていたとしても。

―遠回りをする。楽なほうへ行こうとするとか。これはいいと思っていてもどこかで「?」って思っていることを進めると痛い目に合うね(笑) これは個人的にね(笑)

なぜこれを聞いたかというと、今いろいろな災害が起こっているから(この日の直前は台風、北海道の地震があった。)それは未曽有だ。急に変わるわけだ。昨日まであった家がなくなるとか。そういうことが続いていたから聞きたかったんだ。(続く)

 

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