御嶽山の噴火ー感謝の思いと危機管理能力について

2014年の9月に御嶽山が噴火し、登山者の多数の犠牲者が出た。あれから8年が経過したが、活火山の噴火というとらえ方だけはでなく、古くから信仰の対象とされてきた山の噴火である、という視点をもつきっかけになるだろうか。

 

危機管理と感謝の思い

 

――御嶽山の噴火(2014年9月)は、東北大震災の津波のときぐらい衝撃的だった。今日はそこからはじめましょう。自然からの警告だと思うし。「噴火の煙の中に怒りの顔の自然神がいた」と言っていたよね。

あそこが噴火したら、そこで暮らしていた動植物がすべて死ぬわけだから、(そのものたちが)それ(=噴火)をイエスと言わないかぎり噴火できない。富士山はなんとか抑えたけどね。

人の危機管理能力と、感謝の思いが薄れてきたと思う。

逆に言うと、(天災を)ちゃんと怖がらない。

怖がることは悪いことではない。

その時に自分が、何であるのか、何ができるか、何ができないのか、その時に動けるのかをちゃんと分析しながらいること。

その中で何も起こらなければ、感謝など自分の部分で動けばいいのだか、(天災が)起きてからも起きてないときも、ただ嫌だ、嫌だ、怖い、怖い、あっちへ行こう、こっちへ行こう、と言う人が増えてきたと思う。

神経質に、病的に。

他者のせいにする、物のせい、見えないもののせいにするのが増えてきた。

まだ、10代や20代のほうが感謝の思いがあるように見受けられる。

 

妙な怖がり方をしている、集団的な。自分がどうなのかというのではなく。

そこで何を学べるかだ。

なぜその時間、そこに行って、その状況で経験をするのか、

だから。

――とてもソフトな言い方をしていると思うけど・・・。

ソフトに言わなければだめだと思ったから。こういう時は優しい言葉の方が私はいいと思った。

その場(=噴火)にいた人の血縁の方を配慮したい。

その人たちが知りたいと思ったときに初めて伝えられる。

それまでは行動でしか伝えることができない。

(2014年10月)