先祖供養

「先祖供養」というのは、言葉としてよく耳にするし、行動としては「墓参り」だと思っているが、いったいどんなことがご先祖さまへの供養になるのだろう?(2015年6月)

―「先祖供養」というのは、どういう風に供養するの? また、どのようにされると先祖さんがうれしいのかな? 供養されていると思うのかな?

一つ質問。「供養」って何か?

―そういう存在がいてくれたので自分があるから、と考えたり、思い出すとか・・・。

先祖供養よりも「先祖にご報告」っていう言い方(が正しい)かな。「自分はこんな風に生きていますよ!」って。(あなたが)集大成だから。

生きているすべてが先祖供養だ。あくまでもお墓や御仏壇は、君たちが(先祖を)見えなくなったから、先祖が来てくれていると思う場所。そこにいるんだと思うこと、信じることができる場所だ。

向こうさんにとって見たら、お墓や仏壇はずっといる場所ではない。本人とずっと一緒にいるんだけどね。 

―お墓に行けば思い出してくれるんなら、お墓に行こうかって。本当はいつも一緒なんだけど、と。

そうそう、気持ちがうれしい。忘れられていないんだ、ということが嬉しいからいいんだけど。

ただ、無理してお墓へ行くよりは思い出した時にお茶の一杯も置いて、その人が生前好きだったものを好きだった場所に置くとか。過去帳があれば、亡くなった日に好きだったものを供えるとか。 

行為によって温かい思いになる。その思い、それが返った時に子孫が守られる。朝起きたときから供養だ。

―寝ているときは?

寝ているときは向こうに行っているから、供養じゃなくて一緒に遊んでいるんだ。勉強したり。離れようがない。何億人の最先端(ボールペンの芯を指しながら)が自分。先祖の代表として生きている。 

死んだあとはあまりにこの世界と似ているので、元気になったとか誤解をするんだ。でも、誰も気が付かない。お葬式なんかに行くと私は目が合っちゃったりして、困る。「私は元気になったんでしょうか」って。まあ、元気になったっていえば元気になったんだけど、でもちょっと違うんだけど…身体燃えちゃってるしって(笑)。

もともとは山の行、里の行、海の行があるんだけれど、植物と話ができる、死んだ者たちと話ができる、おくりびと、さきおいびと。いろんな職業があった。自然と暮らすと感覚が鋭くなる。自分を守るために、または周りを守るために。でもどんどん愚鈍になってしまった。物が増えれば豊かなんだけどある意味、貧乏になってしまった。便利になり過ぎた。ただ、思いは退化しなかった。その思いの形を表現するのがお墓や、仏壇、寺の供養。

お盆とか(そういう供養の日)は、誰が思っているのか、生きている人間が思っている思いだ、お盆だからご先祖様を供養する、という思いがあると、そのように気が動くから向こうの人が帰ってきやすくなる。道ができる。こちらが思いをかけなければ、向こうも反応できない。

ほそぼそでいいから、誰か思い出してくれれば、機能していく。

―日々、一人で思っているだけでも、何億人も、供養しているかも。

もちろん、何十億人だ。

身体があっても、身体がなくても思われている、その人をその人として忘れていないってことはすごく嬉しいことだ。亡くなった後、誰も自分のことを思い出さなければ、すごく悲しいじゃない。

思い出すって、ふって思い出す。忘れられてなかったって。

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